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​感謝と文化  

(内藤俊史・鷲巣奈保子) 

(最終更新日 2022.8.9) 

 
 
 
 

感謝の文化差を理解すること                                               

 感謝の心や感謝の行動は、どの文化でも共通なのでしょうか、それとも文化によって異なるのでしょうか。感謝の文化的な普遍性や相違は、それ自体、興味深い問題ですが、特に文化間のコミュニケーションにおいて、深刻な相互不信を導くこともあります。

   私たちは、私たち自身のもつ感謝のあり方を、「人間なら誰でもがそうするはずだ」と信じ、他の文化の人々にも適用することがあります。そして、自分たちの方法と異なる形での感謝を「感謝」として理解しないことがあります。

 そして、相手のために尽くしたにもかかわらず、何も感謝をされないと感じ、がっかりする以上に、人格を無視されたような思いをすることさえあるでしょう(前を歩いている人が財布を落としたのをみて、拾ってあげたとき、その人がただ財布をだまって受け取って去っていく場面を想像して下さい)哲学者のカント(1797/1969)は、感謝には尊敬が含まれると論じましたが、まさにその逆の事態、人格を無視された事態とでもいえそうです。 

 ​このように、異なる形での感謝の心や行動に出会ったときに、それが感謝の姿の一つであることに気づかず、人格を無視されたと思い、相手への不信に陥ることはあり得ることです。

 感謝の心や行動は様々な要素から成っていて、それぞれの要素について文化による相違が考えられます。例えば、感謝を表現する方法が、国や地域で異なることは、比較的よく知られていると思います。また、他のセクションで、社会で共有されている「感謝の文法」について述べましたが、文化によって異なる「文法」があるかもしれません。

 感謝の文化的な普遍性や相違を知る必要があるのは確かです。しかし、信頼できる「感謝の文化的普遍性と相違の理論」が構成されるためにはさらに多くの研究が必要です。したがって、私たちができることは、感謝に関する様々な面について文化的な相違があり得ることを理解した上で、他の文化の人々と交流を重ねていくことではないかと思います(もっとも、同じ文化内であっても、自分と異なる感謝の表現方法に出会うことはまれなことではなく、同じような態度が必要ともいえます)。 

 感謝が文化によって異なることを示す、いくつかの事例を次にあげます。それらは、自分の育った文化と他の文化との間で生じた、感謝をめぐる葛藤です。ただし、感謝のどの部分の相違なのか、例えば、感謝の表現の違いなのか、それとも感謝の心そのものの違いなのかという点はこれからの課題です。 

文化による相違の例

   4つの例をあげます。それらの内の3つは、日本と外国との相違に関するものです。

a. 感謝を表現することの文化差―インドとアメリカ合衆国

  アメリカ合衆国での数ヶ月の滞在から帰る途中、私の研究室に訪れた若いインド人の女性心理学者は、アメリカ滞在中に理解できなかったこととして次のような出来事を話してくれました。スクールバスから降りる多くの子どもたちが"サンキュー"という言葉を運転手に投げかけるのをみたのですが、それが不可解だというのです。つまり、仕事あるいは義務としてスクールバスの運転をしている運転手になぜ感謝をするのかわからないと言うのです。 

 Singh(2015)は、インドからアメリカ合衆国へ移住した経験にもとづいて、感謝の表現の文化差について次のように述べています。

 インドでは、ヒンズー語で感謝(dhanyavaad)を述べることはまれであり、もし話すとしても、かなりあらたまった場面であり、子ども同士でこの言葉を使うことはありません。しかし、アメリカ合衆国に移住後、頻繁に用いられる感謝表現として、”thank you”を学ぶこととなりました。しかし、久しぶりにインドへ帰郷をしたとき、今度は、インドの人々を不快にさせてしまいました。兄弟、友人に対して、感謝を述べると、冗談として受けとられたり、場合によっては相手を不快にさせました。ヒンズー語での感謝表現は、相手との新たな関係をもたらすのですが、すでに構築されている親密な関係における感謝の表現は、むしろ関係を悪くしてしまう可能性さえあるといいます。

 

b. 感謝の表現の頻度とタイミング―日本とタイ 

 斉藤(1999)は、タイにおける滞在経験にもとづいて、日本とタイとの間のお礼のあり方の違いを述べています。

 日本人である著者がタイに着任し、赴任の挨拶廻りをしたときのことです。日本で人気の出ていたポータブルテレビを持参したところ、取引先であるタイのオーナー夫妻は大変喜んでくれました。ところが、その二日後に、仕事で顔を合わせたときのことです。テレビのことは一切触れられることはなく、もちろん感謝の言葉はまったくありませんでした。著者はそのことにひどく落胆したようです。確かに、日本人の多くは、そのときに、一言、感謝の言葉があると予想するでしょう。

 著者は、結局次のように述べています-「日本流に右から左へとお返しをするのは、せっかくの相手の好意を無にする無朕な行為ととられるそうだ。秘書や女性スタッフのばあいは、筆者の誕生日やバレンタインデーに、一年分のお礼とばかり豪華なケーキ、ワインなどをプレゼントしてくれる。これが、タイ・ウェイである」。 

 なお、お礼の慣習の違いだけではなく、次のような説明もあります。Holmes & Tangtongtavy (1995)は、タイの慣習についての著書のなかで、仏教の思想が浸透しているタイでは、プレゼントに対して過度に喜ぶことは強い物欲を示すものとして控えられると述べています。

c. お礼のタイミングと頻度―日本と韓国

 私が勤務していた大学で、留学生と研究の相談をしているとき、たまたま感謝やお礼の仕方について話題になったことがあります。その学生は、韓国からの留学生で、日本での生活はすでに10年を超えていました(30代女性 )。彼女は、贈り物をもらった後、短期間の間に何らかのお返しをするという日本の習慣になかなか慣れないとのことでした。今はその習慣に従ってはいるものの、未だに違和感があり、今でも、何かをプレゼントされると、嬉しい反面、そのお返しをどうするかを考えて重い気持ちになるとのことでした。

 確かに、日本の社会での「お返し」「お礼」の習慣は、日本人にとっても、頭を悩ませるものだと思います。そして、韓国に限らず、他の文化から参入した人々にとって、日本における「お返し」「お礼」の習慣は理解するために時間が必要と思われます。

 なお、日本と韓国の人々の間のコミュニケーションについては、次のような指摘もあります。 

 大崎(1998)は、日本と韓国とのコミュニケーションについて次のように述べています。 

「相手との摩擦をさけるため潤滑油的にむやみやたらに「ありがとう」「すいません」を連発する日本人と、軽々しく謝辞を言ってはならないとする韓国人がコミュニケーションすると、両者の間には当然ながら誤解が生ずる。日本人は、謝辞のない韓国人の態度に不快となり、韓国人は、謝辞の多い日本人に水臭さを感じる」(大崎正瑠(1998)『韓国人とつきあう法』p. 104)

 

d.お礼のタイミング―日本と中国

 村山(1995)は、中国からの留学生から聞いた「お返し」についての疑問を述べています。その留学生の疑問は、要約すると次のようなものでした。

 「日本ではお土産が必要と聞いて、中国のお土産を日本の人々に差し上げたのですが、そのつどお返しをもらいました。しかも、そのお返しは、お土産を差し上げた直後にいただくのが常でした。このお返しの意味がよく理解できません」。

 確かに、日本人の間では、何かを受け取ったときや恩恵を受けたときに、あまり時間をあけないうちにお返しをすることがあります。村山(1995)によれば、中国人の考え方からすると、プレゼゼントをもらってすぐお返しをすることは、商業上の売買と同じことになってしまい、相手からの厚意を厚意として受け取らないことになるといいます。むしろ、厚意は受け取り、そこで築かれた関係を忘れずに、何かのおりに感謝の返礼をすべきであるというのが中国における感謝の流儀という訳です。 

 これらの事例は、主にお返しの行動に関わる文化差に関するものでした。日本人の間でも、人が日本のお返しの習慣に反することをすれば、「水臭い」と言われたり、逆に「恩知らず」、「礼儀知らず」と言われて非難されることもあります。同じようなことが異なる文化の間で生じることを示しています。

その他の文化差―感謝とともに生じる感情

 これまで述べた事例は、主に感謝の行為に関するものでした。それでは、より内面的な感謝の心に文化差はあるのでしょうか。 

 1つの可能性として考えられるのは、感謝が生じる場面で、同時に感じる感情の文化差です。感謝という感情は、様々な感情と同時に生じる可能性がありますー負債感、尊敬、尊厳等など。したがって、ある文化では、感謝が神への感謝と強く結びついているために、感謝に尊敬や畏怖の心が伴いやすいといったことは、考えられないでしょうか。また、返報が強く期待される社会では、恩恵を受けたときに同時に負債を感じやすく、感謝が負債感とより強く結びつくことも考えられます。

 どのような感情が同時に生じやすいかという点で、文化による相違が考えられます。この点を支持する次のような研究結果があります。

 第一に、Morgan, Gulliford, & Kristjánsson (2014)は、プロトタイプ分析という方法で、英国における感謝概念を分析し、負債感などのネガティブな感情概念が、米国の結果よりも心の中で近い概念として位置づけられることを見出しています。この結果は、ポジティブな感情としての感謝とすまないという感情が同時に起こりやすいとされる日本の場合と共通すると思われます。

   第二に、感謝したいことを想起する経験(例えば、毎日、感謝することを3つ思い出す)が、Well-beingなどを高めるという結果が、アメリカ合衆国における研究で得られているのに対して、特にアジアの国々、なかでも日本と韓国で、そのような効果がみられないという結果が得られています。考えられる一つの説明は、アジアの文化、なかでも、関係規範を強調する儒教の伝統を保持する文化では、感謝とともに負債感などの感情が同時に生起しやすいために、感謝の経験の想起は、特に短期的には、心理的幸福感等の高揚は生じ難いというものです。

まとめ 

   このセクションでは、感謝の文化差を示すいくつかの事例を取りあげました。それらは、主に返礼などの感謝の表現に関わる文化差でした。もっとも、外側から見えやすい感謝の表現が文化差として際立つというのは、当然といえるかもしれません。

 しかし、感謝は、文化的要因に影響されそうな心理的な要素を含んでいますので、感謝の心が文化によってある程度異なるとしても不思議ではありません。例えば、感謝の心は、恩恵を与えてくれたものが誰(何)であるのか、そしてどのような理由、経緯で恩恵を与えてくれたのかを理解することが含まれています。それによって感謝をするかどうかが決められます。それらを考える過程で、文化における世界観、死生観、道徳的-宗教的義務、が影響することは十分に予想されます。

 現在、いえることは、感謝の様々な側面において文化差があり得るという認識の下で、相互の尊重を損なわないコミュニケーションが必要であるということでしょう。

文献

 
 
 

補足 感謝のある社会とない社会

 このセクションを次の言葉で始めました-「感謝の心や感謝の行動は、どの文化でも共通なのでしょうか、それとも文化によって異なるのでしょうか」。この問いは、「感謝の普遍的な存在」が前提になっています。しかし、少なくとも感謝の言葉が存在しない文化が見いだされています。そのことは、「感謝」が大切にされる私たちの社会のあり方を、あらためて認識する契機を与えてくれます。このセクションの最期に1つの例を紹介します。

 感謝を表わす言葉のない社会

 奥野(2018)によると、ボルネオ島に住む狩猟採集民族のプナンの人々は、「ありがとう」に該当する言葉をもたないといいます。何かを贈っても、「jian kenep」(よい心がけ)という言葉が使われることはあっても、感謝の言葉はありません。プナンの社会の特徴としてあげられる第一の点は、物を与えること(気前が良いこと)という強い規範があること、あるいは個人の所有欲を抑制する傾向が強いこと、第二に、共有という精神にみちていることです。共有という精神は、物に限らず、精神(知識や感情)、行動(共に行動する)について適用されます。

 ところで、典型な「感謝」を最も短い言葉で特徴づけるとすれば、自分と分離された他者が、自分の幸福に対して自発的に寄与したことに対する敬意や親しみの感情ということになります。そこで、感謝が成立するためには、自—他の分離が意識される必要があります(「自分の幸福」や「相手の幸福のために」という概念が意識されるために)。そのように考えると、プナンの社会の特徴は、感謝の成立しにくい状況にみえます。どちらの社会が好ましいかというよりは、感謝の社会的基盤や発生を考える貴重な材料になると思います。 

文献

奥野 克巳  (2018). 『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 亜紀書房

 

日本語以外のバージョンは、機械翻訳による試作です。