
感謝と文化
(内藤俊史・鷲巣奈保子 最終更新日 2023.2.7)
感謝の文化差を理解することの大切さ
感謝のあり方は、どの文化でも共通なのでしょうか、それとも文化によって異なるのでしょうか。感謝の文化的な普遍性や相違は、それ自体、興味深い問題です。感謝は、感情、認知、行動を含む広い概念ですが、なかでも、感謝を伝える「感謝の行動」の相違は、異文化間のコミュニケーションにおいて、深刻な相互不信を導くこともあります。
私たちは、いつ、どのようなときに感謝をするかを示す、いわば感謝の規範を持っていますが、それらを、そのまま「人間なら誰でもがそうするはずだ」と信じ、他の文化の人々にも適用することがあります。また、自分たちと異なる形での感謝を「感謝」として理解しないこともあります。
その結果、相手のために尽くしたにもかかわらず、感謝をされていないと感じて落胆したり、さらには、人格を無視されたように感じることさえあるでしょう(前を歩いている人が落とした財布を拾ってあげたとき、その人がただ財布をだまって受け取って去っていく場面を想像して下さい)。哲学者のカント(1797/1969)は、感謝には尊敬が含まれると論じましたが、まさにその逆の事態、人格を無視された事態とでもいえそうです。
このように、異なる形での感謝の行動や、さらに広く、異なる形での感謝の心や感謝に関わる行動に出会ったとき、それが感謝の姿の一つであることに気づかずに、人格を無視されたと思い、相手への不信に陥ることはあり得ることです。
感謝は様々な要素から成りたっていますが、それぞれの要素について文化差が考えられます。例えば、感謝を表現する方法は、感謝の一つの要素ですが、国や地域で異なることは、よく知られています。また、他のセクションで、社会である程度共有されている感謝の概念として、「感謝の文法」について述べましたが、文化によって異なる「感謝の文法」があるかもしれません。
他の文化との交流のためにも、感謝の文化的な普遍性や相違を知る必要があるのは確かです。しかし、現在、多様な文化が存在していますし、さらに多様な文化が存在することがわかってきました。信頼できる「感謝の文化的普遍性と相違の理論」が構成されるためにはさらに多くの研究が必要です。
このような状況で、私たちができることは、感謝に関する文化的相違の可能性を理解した上で、他の文化の人々と交流を重ねていくことではないかと思います(もっとも、同じ文化内でも、異なる世代の人々とのやりとりのなかで、自分と異なる感謝のあり方に出会うことはまれなことではなく、同じことが言えそうです)。
次に、感謝の文化差を示すいくつかの事例をあげます。それらは、自分の育った文化と他の文化との間で生じた、感謝をめぐる葛藤です。ただし、それらの相違についての理論的な説明、すなわち、感謝のどの要素がどのような要因によって相違を生み出しているかの説明は、これからの課題です。
また、紹介する例は、あくまで1つの「事例」であること、そして、それらの記述は、いわゆる学術論文として公刊されたものではない点を理解していただきたいと思います。
文化による相違の例
いくつかの著書と論文から、4つの例をあげます。それらの内の3つは、日本と外国との相違に関するものです。
a. 感謝を表現することの文化差―インドとアメリカ合衆国
Singh(2015)は、インドからアメリカ合衆国へ移住した経験にもとづいて、感謝の表現の文化差について次のように述べています。
インドでは、ヒンズー語で感謝(dhanyavaad)を述べることはまれであり、もし話すとしても、かなりあらたまった場面であり、子ども同士でこの言葉を使うことはありません。しかし、アメリカ合衆国に移住後、頻繁に用いられる感謝表現として、”thank you”を学ぶこととなりました。しかし、久しぶりにインドへ帰郷をしたとき、今度は、インドの人々を不快にさせてしまいました。兄弟、友人に対して、感謝を述べると、冗談として受けとられたり、場合によっては相手を不快にさせました。ヒンズー語での感謝表現は、相手との新たな関係をもたらすのですが、すでに構築されている親密な関係における感謝の表現は、むしろ関係を悪くしてしまう可能性さえあるといいます。
b. 感謝の表現の頻度とタイミング―日本とタイ
斉藤(1999)は、タイにおける滞在経験にもとづいて、日本とタイとの間のお礼のあり方の違いを述べています。
日本人である著者がタイに着任し、赴任の挨拶廻りをしたときのことです。日本で人気の出ていたポータブルテレビを持参したところ、取引先であるタイのオーナー夫妻は大変喜んでくれました。ところが、その二日後に、仕事で顔を合わせたときのことです。テレビのことは一切触れられることはなく、もちろん感謝の言葉はまったくありませんでした。著者はそのことにひどく落胆したようです。確かに、日本人の多くは、そのときに、一言、感謝の言葉があると予想するでしょう。
著者は、結局次のように述べています-「日本流に右から左へとお返しをするのは、せっかくの相手の好意を無にする無朕な行為ととられるそうだ。秘書や女性スタッフのばあいは、筆者の誕生日やバレンタインデーに、一年分のお礼とばかり豪華なケーキ、ワインなどをプレゼントしてくれる。これが、タイ・ウェイである」。
なお、お礼の慣習の違いだけではなく、次のような説明もあります。参考までに、加えておきます。Holmes & Tangtongtavy(1995)は、タイの慣習についての著書のなかで、仏教の思想が浸透しているタイでは、プレゼントに対して過度に喜ぶことは強い物欲を示すものとして控えられるのだと説明しています。
c. お礼のタイミングと頻度―日本と韓国
私が勤務していた大学で、留学生と研究の相談をしているとき、たまたま感謝やお礼の仕方について話題になったことがあります。その学生は、韓国からの留学生で、日本での生活はすでに10年を超えていました(30代女性 )。彼女は、贈り物をもらった後、短期間の間に何らかのお返しをするという日本の習慣になかなか慣れないとのことでした。今はその習慣に従ってはいるものの、未だに違和感があり、今でも、何かをプレゼントされると、嬉しい反面、そのお返しをどうするかを考えて重い気持ちになるとのことでした。
確かに、日本の社会での「お返し」「お礼」の習慣は、日本人にとっても、頭を悩ませるものだと思います。そして、韓国に限らず、他の文化から参入した人々にとって、日本における「お返し」「お礼」の習慣は理解するために時間が必要と思われます。なお、大崎(1998)は、日本と韓国とのコミュニケーションについて次のように述べています。
「相手との摩擦をさけるため潤滑油的にむやみやたらに「ありがとう」「すいません」を連発する日本人と、軽々しく謝辞を言ってはならないとする韓国人がコミュニケーションすると、両者の間には当然ながら誤解が生ずる。日本人は、謝辞のない韓国人の態度に不快となり、韓国人は、謝辞の多い日本人に水臭さを感じる」(大崎正瑠(1998)『韓国人とつきあう法』p. 104)
d.お礼のタイミング―日本と中国
村山(1995)は、中国からの留学生から聞いた「お返し」についての疑問を述べています。その留学生の疑問は、要約すると次のようなものでした。
「日本ではお土産が必要と聞いて、中国のお土産を日本の人々に差し上げたのですが、そのつどお返しをもらいました。しかも、そのお返しは、お土産を差し上げた直後にいただくのが常でした。このお返しの意味がよく理解できません」。
確かに、日本人の間では、何かを受け取ったときや恩恵を受けたときに、あまり時間をあけないうちにお返しをすることがあります。村山(1995)によれば、中国人の考え方からすると、プレゼゼントをもらってすぐお返しをすることは、商業上の売買と同じことになってしまい、相手からの厚意を厚意として受け取らないことになるといいます。むしろ、厚意は受け取り、そこで築かれた関係を忘れずに、何かのおりに感謝の返礼をすべきであるというのが中国における感謝の流儀という訳です。
これらの事例は、主に、感謝の行動やお返しの行動の文化差に関するものでした。日本人の間でも、人が日本のお返しの習慣に反することをすれば、「水臭い」と言われたり、逆に「恩知らず」、「礼儀知らず」と言われて非難されることもあります。同じようなことが異なる文化の間で生じることを示唆しています。
その他の文化差―感謝とともに生じる感情
これまで述べた事例は、主に感謝の行動に関するものでした。それでは、より内面的な感謝の心に文化差はあるのでしょうか。
1つの可能性として考えられるのは、感謝が生じる場面で、同時に感じる感情の文化差です。感謝という感情は、様々な感情と同時に生じる可能性がありますー負債感、尊敬、尊厳等など。したがって、ある文化では、感謝が神への感謝と強く結びついているために、感謝に尊敬や畏怖の心が伴いやすいといったことは、考えられないでしょうか。また、返報が強く期待される社会では、恩恵を受けたときに同時に負債を感じやすく、感謝が負債感とより強く結びつくことも考えられます。
どのような感情が同時に生じやすいかという点で、文化による相違が考えられます。この点を支持する次のような研究結果があります。
第一に、Morgan, Gulliford, & Kristjánsson (2014)は、プロトタイプ分析という方法で、英国における感謝概念を分析し、負債感などのネガティブな感情概念が、米国の結果よりも心の中で近い概念として位置づけられることを見出しています。この結果は、ポジティブな感情としての感謝とすまないという感情が同時に起こりやすいとされる日本の場合と共通すると思われます。
第二に、感謝したいことを想起する経験(例えば、毎日、感謝することを3つ思い出す)が、Well-beingなどを高めるという結果が、アメリカ合衆国における研究で得られているのに対して、特にアジアの国々、なかでも日本と韓国で、そのような効果がみられないという結果が得られています。考えられる一つの説明は、アジアの文化、なかでも、関係規範を強調する儒教の伝統を保持する文化では、感謝とともに負債感などの感情が同時に生起しやすいために、感謝の経験の想起は、特に短期的には、心理的幸福感等の高揚は生じ難いというものです。
まとめ: 文化差を理解する仮説的枠組み
このセクションでは、感謝の文化差を示すいくつかの事例を取りあげました。それらは、主に返礼など、感謝の表現に関わる文化差でした。もっとも、外側から見えやすい感謝の表現が文化差として際立つというのは、当然といえるかもしれません。
感謝は、文化的要因に影響されそうな心理的な要素を含んでいますので、感謝の心が文化によって異なるとしても不思議ではありません。例えば、感謝の心には、恩恵を与えてくれたものが誰(何)であるのか、そしてどのような理由、経緯で恩恵を与えてくれたのかを理解することが含まれています。それによって感謝の気持ちが生まれたり、あるいは感謝をすべきかどうかが判断されます。その過程で、文化における世界観、道徳的-宗教的義務などが関わることは十分に予想されます。
感謝の過程と文化差について整理を試みたのが、表1の仮説的な枠組みです。
表1. 感謝の要素と文化的相違
(援助を受けた場合を例として)
A. その援助の意義に関わる文化的相違
・「何がその援助をもたらしたと考えるか」
文化によるバリエーション
「援助者の自由意志、心、理性」「社会的制度、環境」「超越者、神仏」など
・「その援助行為はどのような意義をもつと考えるか」
文化によるバリエーション
「道徳的な行為」「社会的義務の遂行」「宗教的義務の実行や、布施行などの宗教的訓練」など
・「その援助によって得たものには、どのような価値があると考えるか」
文化によるバリエーションの次元
「物質的価値-精神的価値」「援助した者が得た価値-援助された者が得た価値」など
B. 経験する感情の文化的相違
・「その援助を受けた者は、どのような感情を経験するか」
その援助に対して感じる感情は、文化におけるその援助の意義(A)によって変わります。例えば、その援助が、最終的には神仏が導いたことであれば、感じる感情は、神仏に対する感謝・畏敬と考えられます。また、援助者の思いやりによるものであれば、親しみや信頼を感じるでしょう。
文化によるバリエーション
「ポジティブな感謝の感情、愛着」「負債感」「畏怖・尊敬」「すまなさ」「恥」など
C. 対応の文化的相違
・「援助を受けて、何をするか、何をしなければならないか」
その援助に対して何をするかは、その援助の意義(A)と経験する感情(B)によります。
文化によるバリエーション
「恩人への恩返し」「社会への恩返し」「社会制度への信頼と忠誠」「神仏への感謝」など
現在いえることは、感謝の様々な側面において文化差があり得るという認識の下で、相互の尊重を損なわないコミュニケーションが必要であるということでしょう。
文献
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Holmes, H. & Tangtongtavy,H. (1995). Working with the Thais:A guide to managing in Thailand. Bangkok: White Lotus.
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カント、イマニュエル (1797/1969). 吉沢伝三郎・尾田幸雄訳 『カント全集第11巻人倫の形而上学』 理想社 (原著は、Die Metaphysik der Sitten, 1797年出版 )
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Morgan, B., Gulliford, L., & Kristjánsson, K. (2014). Gratitude in the UK: A new prototype analysis and a cross-cultural comparison. The Journal of Positive Psychology, 9(4), 281-294.
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村山孚 (1995).『中国のものさし・日本のものさし』 草思社
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大崎正瑠(1998).『韓国人とつきあう法』 筑摩書房
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斉藤親載 (1999). 『タイ人と日本人』 学生社
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Singh Deepak (2015). “I’ve Never Thanked My Parents for Anything” The Atlantic.JUNE 8, 2015 Downloaded 2020.11.22https://www.theatlantic.com/international/archive/2015/06/thank-you-culture-india-america/395069/
補足 感謝を表わす言葉のない社会
このセクションを次の言葉で始めました-「感謝の心や感謝の行動は、どの文化でも共通なのでしょうか、それとも文化によって異なるのでしょうか」。この問いは、「感謝の普遍的な存在」が前提になっています。しかし、少なくとも感謝の言葉が存在しない文化が見いだされています。そのことは、「感謝」が大切にされる私たちの社会のあり方を、あらためて認識する契機を与えてくれます。このセクションの最期に1つの例を紹介します。
感謝を表わす言葉のない社会
文化人類学者の奥野(2018)によると、ボルネオ島に住む狩猟採集民族のプナンの人々は、「ありがとう」に該当する言葉をもたないといいます。何かを贈っても、「jian kenep」(よい心がけ)という言葉が使われることはあっても、感謝の言葉はありません。プナンの社会の特徴としてあげられる第一の点は、物を与えること(気前が良いこと)という強い規範があること、あるいは個人の所有欲を抑制する傾向が強いこと、第二に、共有という精神にみちていることです。共有という精神は、物に限らず、精神(知識や感情)、行動(共に行動する)について適用されます。
ところで、典型な「感謝」を最も短い言葉で特徴づけるとすれば、自分と分離された他者が、自分の幸福に対して自発的に寄与したことに対する敬意や親しみの感情ということになります。そこで、感謝が成立するためには、自—他の分離が意識される必要があります(「自分の幸福」や「相手の幸福のために」という概念が意識されるために)。そのように考えると、プナンの社会の特徴は、感謝の成立しにくい状況にみえます。どちらの社会が好ましいかというよりは、感謝の社会的基盤や発生を考える貴重な材料になると思います。
文献
奥野 克巳 (2018). 『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 亜紀書房
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